ROSA LUXEMBURG

追悼 どんと(久富隆志)とROSA LUXEMBURGのことどんと
大学時代(88年)クロッキー帳に落書きしたどんとイラスト(美形すぎだな(^_^;)

 

ex.ROSA LUXEMBURG 、ex.BO GUMBOSのどんと(久富隆志)氏が旅行滞在中のハワイの病院で9時15分(日本時間1月28日4時15分)に亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。

●オフィシャル情報はこちらから
 

 訃報を聞いてから、数日たった今も何が起きたのかまだ信じられない。

混乱した頭の中で何か書かずにいられずこの文章を書いてます。
青臭く支離滅裂な文できっと後で恥ずかしくなると思いますが書きます。

亡くなって始めて自分にとってこんなにも重要なミュージシャンだったことに改めて気付き、己の愚かさを呪う。身勝手なファンだなという思いと後悔がよけい悲しみを増長させる。

BO GUMBOSになってからはほとんど聴いてませんでした、弟がBO GUMBOS好きでCDやビデオ持ってたのを見せて貰ってたぐらいで。ギターの玉 城が好きだったというのと、どんと、永井の2人が脱退して解散ということだったので、素直に聴くことができなかった。 バンドを壊しやがって、というような思いもあった。(非常に勝手な思い込みですが) ローザの終わり方って空中分解みたいで悲しかったから・・・

まるで封印するかのようにBO GUMBOSには接触しなかった、あまりロック聞かなくなっていた時期でBlankeyしかライヴ行って無いというのもあったけど。
ex.ZERDAの小嶋さちほと結婚して沖縄へ移住したと言うのを友人(沖縄好き&BO GUMBOSファン)から聞いて「ああ、どんとらしいなあ」と思ってた。
ソロになってからも音は聴いたことなくホームページ見つけた時も、元気にやってるんだなあ、とたまにページを見てるだけでした。

99年の8/14に下北沢CLUB251であった玉城のバンドマチルダ ロドリゲスにどんとがゲスト参加したのを見に行っておけば良かった・・・
京都への帰省と大阪であった「リズムターミナル」というイベントを見るので悩んだが、また見る機会があるだろうと見送ったのが間違いだった(悔)
「サマーオブどんと実況録音版1998」 を買ってきて聴いていたら”橋の下”を玉城と共演していて、ああこのギターの音でどんとの歌を聴きたかったんだ・・・
と改めて思ってしまった。


僕が最後にどんとの姿を生で見たのは今は無きインクステック芝浦でのじゃがたらのライヴの時でした。(89年2/20)髪の毛を青く染めた姿は2階の招待者席にいても目立って分かりました。

享年37歳。僕の2つ上、90年1月27日に江戸アケミが亡くなって10年だという、そのアケミが亡くなった日の一日後(2000年1月28日、現地時間にすると同じ日・・・)だった。  
気になって調べてみればバンド名をとったローザ・ルクセンブルクの死が1919年の1月15日・・・

 

湿っぽい言葉はどんとには似合わない。


きっと天国でも楽しくギターを弾いて歌ってるはず、また歌を聴かせてよ!
素晴らしい音楽をありがとう!!!どんと。


ROSA LUXEMBURG
久富隆志(どんと) Vo.G.
玉城宏志 Vo.G.
永井利充 Vo.B.
三原重夫  Dr. Vo.
ROSA バッチ
←ファーストアルバム
「ぷりぷり」を買った時にもらったもの、色違いなど3種類ぐらい持っていたのだが今は手許にあるのはこれだけ。

 ROSA LUXEMBURGというバンドはじゃがたらRoostersとならび自分の中でもっとも大切なバンドです。大江が抜けたあとRoosterz聴かなくなったんですが「FOUR PIECES」で三原がメンバーになったというので、また聴きはじめたと言うぐらい、ローザのプライオリティは高かった。

ROSA LUXEMBURGとの出合いは1985年の年末、京都に帰った時にちょうど磔磔でライヴがあると言うので出かけて行った(たぶん宝島かなんかの情報だと思う)メジャーデビュー前で全く音も聴いたこと無かったのだが、1回見ただけでものの見事にはまってしまった。初見のバンドで最初から最後までこんなに楽しめたライヴなんてこの前にも後にも無い。そのぐらい貴重なライヴであり出合いだった。

 初めてのライヴを磔磔で見られたことは幸いだった、チケットも今のぴあのような無味乾燥な物で無く尾おそらくメンバーの手作りであろうと思われるサイケデリックな模様の描かれた物でした(実家探せば半券あるはず)
この時ドラムの三原重夫のお母さんが見に来ており、どんとの呼び掛けと共にスポットライトを当てられていた(笑)のを思い出す。
見た目は派手。サイケデリックな衣装に身を包み顔にもメイク。
一見色モノ以外の何者でも無いがステージ後ろにバンドのシンボルとも言えるでかいお面 (ファーストアルバム「ぷりぷり」の中ジャケに写ってる)耳に残るメロディ、コミカルで不可思議な歌詞とその世界を体現するどんとの存在感。 

玉城宏志  この人のギターが好きだった。気持ち良さそうに縦横無尽にギターを弾く姿。メンバー4人が全てヴォーカルをとれ、曲を作れる。

ライヴバンドである。レコードでは(ライヴ盤でも)このバンドの魅力を伝えることはできなでしょう、普通 はレコードにおさめられた音を再現するというライヴが多い中、このバンドは録音されたものはその時のバリエーションの一つでしか無いという感じで
ライヴではその日の気分と思い付きでどんとは歌詞を変えて良く歌っていた(そういう意味でなのかファーストアルバムには歌詞カードがついていない)曲も詞もフリーフォーマットな部分が多くライヴの中で育っていく感じ。何度見ても飽きさせないステージを見せてくれていた。

音は説明の仕様が無いが、フォーク+ニューウェーヴ+ファンク+サイケデリック+Etcと言うような感じか?
無国籍風。 正当派のギターバンドだった、見た目の奇抜さに惑わされがちだが。

ライヴの雰囲気が好きだった、どんとの人柄がにじみ出ていたがための心地のよい雰囲気だったと思う。

  ”在中国的少年”(初めて聴いた時ボサノババージョンでした、アンコールで通 常バージョンもやりましたが)のどんとと玉城の掛け合いのセリフは毎回違い、何を言うのかが楽しみでした。
”だけどジュリー”*1という京都人なら誰でも知ってるような題材を歌にしてたのも
はまった原因か、なんかすっと歌の世界に入れた。

後期なんかバンドがうまく回って無いようでちょっと心が離れてしまい、渋谷エッグマンでの解散ライヴも見に行かなかった(後悔)ライヴ盤「LIVE AUGUST」を買った時に限定でLiveVideoの販売があったのだけれど、 当時10000円というお金が用意できず買わなかった、これも今となっては無理してでも買っておけば良かった、メジャーから出たものでは無いため今入手することは困難である。

 恥ずかしながらヴェルベット・アンダーグラウンドを知ったのはローザがスゥイート・ジェーンをカヴァーしていたのを聴いてからである。ジミ・ヘンドリックスやストーンズ、ベルべッツなんかをよくカヴァーしてた、ライヴでは。

実質メジャーデビューしてからは2年程の短い活動だったけど(1986年 2月21日デビュー87年8月解散)僕が受けた影響ははかり知れないものがある。

こんなバンドもう2度と出てこないだろう。唯一無比の存在。
デビューが早すぎたバンドだった。ライヴハウスからホールへと言うのがバンドにとっての出世だった時期、今のように逆にライヴハウスでやるという事は無くそれは売れなくなったためという受け止められ方をされた。ローザは結局日本青年館より大きいホールには出れなかったけど。
もう少し受入れられていれば解散は延ばせたかもしれない、などと思ってしまう。


※ローザ・ルクセンブルクとはポーランド生まれの婦人革命家(Rosa Luxemburg,1871〜1919)からとったバンド名です。

*1:この歌のジュリーとは”河原町のジュリー”という実在の浮浪者のことを歌ったもの。高校当時”河原町のジュリー”を知らない者はいないという程有名な浮浪者だった。歌に出てくるように姿を消したが凍死したという噂は事実かは不明。


MUSIC MENU